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>>5 > 続き ヤフー(不吉)はイギリス海軍を分断した。 森で迷う者 恐怖で逃げ出す者 体調を崩す者。 そういった兵士達に島人は食べ物を与え、怪我した者には手厚い治療を施した。 島人の目的はクーリーの自由を守り、イギリス海軍に帰って貰う事であって殺す事ではなかった。 数週間後、アメリカ船が到着 イギリス、アメリカ 合わせて300人の完全武装の兵士がクーリーを捜索をした。 *この時来たアメリカ船は二年後、浦賀沖に来航する事になる、軍艦サトラガ号。日本史で習う黒船です。 カンカカリーやニガイビトの呪詛 島人の敵味方を問わない優しさが敵の戦意を失わせていった。 そして薩摩藩、琉球王朝が間に入り関係諸国との協議の結果 クーリーを中国に帰す事を認めて貰う。 中国を出航時、400余名いたクーリーは172名となっていた。 この事件を契機に苦力貿易は廃止された。 そして数年後アメリカの奴隷解放宣言に繋がる。 クーリーのお墓は島に点在していた。 1971年 台湾政府 在琉華僑の支援もあり イシャナギー市が合祀慰霊を行いフサキに慰霊碑を建てた。 しかし一カ所に集められたクーリーのお墓に経緯を記す事は許されなかった。 当時 イシャナギーはアメリカ合衆国ヤイマ特別自治区に属しておりアメリカの不利益になる文面を記せなかった。 かつてイシャナギーの民衆がクーリーから自由の大切さを学び交流したように、アジアが一つに結束して欲しいと願う。 終わり
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