投稿記事
その時、入口のドアベルが小気味良く鳴り響く。 マスターの出迎える声、そこで終わらず客と二三の言葉が交わされる。 渋みのあるバリトンに温かみを感じる…暫く顔を出さなかった常連だろうか。 入口に背を向けて座る俺からは見えない。 そこで突然、俺の名が呼ばれた。 心臓が激しく鳴った。息が詰まり胸が苦しくなる。 忘れていた声…いや、忘れたことなどなかった声、忘れられぬ声… 振り向いた俺の瞼が極限までに開かれる。 苦笑いをして見送るマスターを背に、 コツコツと靴音を鳴らして勢いよくこちらへやってくる。 僅かに内向きの入ったベージュのセミロングが揺れて宙に舞い、 力のあるヘイゼルの瞳、強い笑みの浮かんだ唇からは片八重歯が覗いていた。 すらりとした長身にフォックスファーが付いたムートンコートがとてもよく似合っている。 「綺麗だ。あの時のまま時間が止まったように、まるで変わっていない」 「京ちゃんなら、そう言ってくれると信じてた♪」 十年前に別れた彼女が以前と変わらぬ姿のまま、俺の目の前に立っていた。 温かく光満ちていた夢の中から突然、追い出された。 身を起こして室内に異変がないかを確かめる。 暗闇の中、家電に付けられたLEDの放つ緑の光点。 枕元で充電中の携帯電話。 僅かな唸りをあげるエアコンの作動音。 俺の隣で安らかに寝息を立てる明里を認めて安堵の溜息を吐く。 あれから一ヶ月が過ぎた。 馴染みの喫茶店で再会した俺と彼女はマスターに見送られて店を出ると、 二人で当時、金があると良く行った洋食屋へ向かい、思い出話に花を咲かせた。 夜も更け…帰りたがらぬ彼女を誘うと俺の部屋までついてきて、 明け方に別れも告げず出ていった。 高学歴で良家に生まれ育った見合い相手を選んだ彼女を いつまでも忘れる事ができず、在りし日の思い出残るこの街に棲み続けている。 いないと分かっている彼女の姿を探し求めて… 未練を引きずる俺とは違って、彼女は別れと同時に余韻もなく角を曲がり、 立ち尽くす俺の姿を視界から消した。 何故にと問いたい。 何故、今頃になって… 耳に残る薄明りの中でのろのろと衣服を身に着ける衣擦れの音… 指と唇に残る彼女の肌の感触と、鼻腔に残る彼女の香り… そこに答えがあったのだろうか…
[
掲示板
]
mobile-bbs