投稿記事
バチッと瞼を開いた。 ホームに電車が来ている。頭上のスピーカーから最終電車のアナウンスが流れる。 いつの間にかベンチで横になって寝ていたのか俺… 慌てて起き上がると…なんだ? 身体に掛けられていたのはグレイッシュピンクの…トレンチコート… 彼女の…雪輪屋さんが着ていた…ゆ、雪輪屋さん…雪輪屋!? 恐怖で全身の毛が逆立った。 誰だ、雪輪屋さんというのは? 名前も貌も記憶にある…あることは…あるのだが… 昔から知っていたつもりだったが…雪輪屋という…あの女の事を俺はまるで知らない… いや、知っている…どういう事だ…記憶がおかしい。 彼女を知っている記憶と、全く知らないという記憶がふたつ…俺の中に存在している。 あの女は実家へ遊びに来たことなどない…来ていたのは… 妹の女子高以来の親友で、雪輪屋姓を持つ女などではない。 腰まで流れる艶やかな黒髪、白磁の様に白い肌… 眼鏡の似合う…おっとりとした相貌、小柄な割りに豊か過ぎる胸部… 少女趣味が過ぎるファッションセンスと…人見知りをする…地味すぎる笑み…性格… 俺の記憶にあるのは彼女ではない全くの別人だ。 雪輪屋という女が、その知人と同一人物であると情報が… 知らぬ間に俺の記憶が改竄されてしまったとでも言うのか。 あの女が着ていたコートを汚物でもあるかの如く投げ捨て 俺はドアを開けて客を待つ最終電車へ逃げる様に乗り込んだ。 車内には顔に疲労を貼り付けて座る客達…ホームには業務に勤しむ駅員… いつもの光景…終電間際に見る日常… 発車メロディが鳴り、ドアが閉まる。 窓の向こうで俺が投げ捨てたトレンチコートがもぞもぞと動いている。 何か中にいるのか…膨らみ… コートから這い出したのは一匹の黒猫だった。 ちょこんと座った猫…その天を向いてそそり立つ太く長い尾が… いきなり縦に、ふたつに裂けた… 化け猫…猫叉…魔性… 今夜の俺は怪異に魅入られてしまったとでも言うのか。 ホームの下から這い出した異形達… 雪輪屋という非在の妖女… そして、最後は猫の化生… 異常も異常…こんなおかしなことに… 喉仏が痙攣したように動き…頬が引き攣り…笑みを象る。 おかしさがこみ上げてくる。 「く、くくくくくくくく」 口を手で押さえ必死で誤魔化そうとするが… 近くにいた乗客達には気付かれてしまったようだ。 顔が、変質者や危ない者、気の毒な人間を見る怪訝な表情をしている。 駄目だ…それすら面白い。 波のように幾度も幾度も可笑しさが押し寄せてくる。 俺を乗せた最終電車は ゆっくりとスピードを上げながら駅を離れて行く。 我慢しきれず…ついに身体を折り、床に倒れこみ 腹を抱え周囲の眼など憚らず笑い転げる。 客達が携帯を取り出して俺を撮影し始めた。 やめろ、撮るな面白すぎる… 何もしないでくれ…可笑しくて…笑いが止まらない。 子供の声がした。 「コイツ失格でちゅ」 「ウン、失格デシ」 「精神が弱すぎるでちゅ」 「コノ程度デ駄目ニナルトカ信ジラレナイデシ」 「それにあんな雑魚の百や二百を一蹴できないで逃げるなんて問題外でちゅ」 「ボクガ作ッタ仮想世界デ酔ッテイルトハ云エ、メイプルシャンガ化ケタママノダミーニ 手ヲ出ソウトシタノハ0点デシ」 「本物のママに現実世界で同じ事したら殺すでちゅ」 「肉片ヒトツ残サズサツガイスルデシ」 「それにしてもなかなかいないでちゅね、ママの良人に相応しい人間の男」 「ママ、ナンデ結婚シタイノカナ?ボク達ガイルノニ」 「ボク達いるのに」 「デハ、彼ノ今夜ノ記憶ヲ消シテ帰ルトスルデシ」 「他の客たちの記憶も画像データも忘れちゃダメでちゅよ。」 「オケデシ、デハ、ママノトコロヘ帰ルデシ」 「帰るでちゅ」 「帰ルデシ」 「ママは今夜、ユズキしゃんのお家にお泊りでちゅ」 「デハ、ユズキシャンノオ家ニ転移スルデシ」 翌日の昼、妹の高校以来の親友が菓子折り持って俺を訪ねてきて、 昨夜奪った記憶を再び戻させましたからと訳の分からぬ事を言って 土下座で謝ってきたので驚いた。 (おしまい)
[
掲示板
]
mobile-bbs