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[お忘れ物ですよ…] 夜更けの地下鉄のホーム、残業でクタクタの体をベンチに預けて、最終電車を待つ巽さん。 定時の帰宅ならごった返す人の波に飲まれ、ベンチに腰掛ける余裕なんてないのだそうですが、この日は巽さんとグレーのスーツを着た老人が一人だけ。 その老人も、ベンチの横で矍鑠と伸ばした背を壁にもたれさせ、巽さん同様に黙って電車の到着を待っていたと云います。 今日は酷い一日だった…大きなミスもして…そのせいで残業して…ああ、思い出すだけで嫌になる…… 疲労のせいか回らない頭の中は、愚痴愚痴愚痴とネガティブな思考がエンドレス。 胃の腑の辺りがキリキリと痛み出した頃、軽快なメロディと電車の到着を告げるアナウンスが流れてきて、巽さんはノロノロと立ち上がったそうです。 ゴォォォ…という辺りを震わす音が近付くのに釣られ、巽さんが一歩二歩と白線に向かって歩みを進めた時、 「お忘れ物ですよ…」 穏やかな低い声が、巽さんの背中を呼び止めたと云います。 突然の事に驚き、足を止めた巽さん。 言葉の意味を理解して振り返ると、柔和な顔で壁にもたれる老人と目が合ったそうです。 見詰め合う事数秒、老人の視線がゆっくりと横のベンチに流れていき、それに誘われる様に巽さんもベンチを見ると…… 先程まで巽さんが腰掛けていたその場所に、ある筈のない『影』が『座っていた』と巽さんは語ります。 その黒い人影は、繋がっていなければならない筈の本体から離れ、今まで巽さんがしていた姿そのままに、手足をだらりと投げ出した形でベンチの背もたれに貼り付いていたそうです。 「………え……?」 ホームに入って初めて、自分の口から溜め息以外の音が出たと、巽さん言いました。 しかしその声は、背後の線路から木霊してきた、 いぃぃぎぃやあぁああぁぁぁあああぁあ… という雄叫びに掻き消されてしまったそうです。 びくりと体を強張らせつつ、反射的に振り返ってしまった巽さん。 その目の前に滑り込んできた地下鉄の車両と、車両から生えている女の体。 蒼白く微かに発光している様に景色から浮き立つ存在。 上半身を限界まで伸ばし、突き出した両腕が空を掻き抱こうと暴れていて、その指先が巽さんの鼻先を掠めていったと云うのです。 徐行していたとは言っても、そこは電車。女を見たのは、一瞬の出来事だったそうですが、風に煽られ振り乱されたゴワゴワの髪…その間から覗く、自分を見据えた血走った狂気の目…まるで地獄絵図に画かれた亡者の様なその姿は、巽さんの脳裡にしっかり焼き付いて、今でも離れないそうです。 あと一歩、前に進んでいたら…そう考えると恐ろしくて、気の狂わんばかりだった巽さん。 何かにすがりたくて、何も起きていない、気のせいだ…その言葉が欲しくてもう一度、老人のいるホームの壁へと視線を向けたと云います。 しかしそこに老人の姿はなく…後にはベンチに腰掛ける影と、矍鑠と伸ばした背を壁に預けた影だけが、無関心の態で残されていたそうです。 この話を伺った時、僕は巽さんからある質問をされました。 「あの時俺は、一体何処に紛れこんでいたんだろうな…?」 残念な頭の僕には、その答えがわかりません。 ただ1つだけ分かるのは、其処が忘れ物を教える為に呼び止めてくれた『親切な影のいる所』だという事です。 さて、今回のお話はここら辺で締めさせて頂きます。 長々とお付き合い下さった方は、有難うございました。 機会があれば、また怪談話に花を咲かせたいと思います。
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