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救急車のサイレンが近い。 大通りを真っ直ぐ、どうやらこの交差点に入ってくるようだ。 信号を待ちながら、由美は昨日の「お迎え」で、ママ友のひとりに投げ付けられた言葉を思い返していた。 『うちの愛梨から聞いたんだけど、菜々ちゃん、毎朝遅れて来るんですって?いいわねぇ、専業主婦だと融通が利いて』 愛梨ちゃんのおうちは共働きだ。 保育園に娘を送ったその足で仕事に行っているらしく、朝はいつでも慌ただしい。 …と言うか、菜々と花菜が大人しく家を出てくれた時でないと、すれ違いすらしない。 『羨ましいわぁ。うちは愛梨に遅刻なんてさせてたら、自分まで仕事に間に合わないもの』 愛梨ちゃんママは溜め息をついたフリで、由美を見下して嘲笑った。 曲がりなりにも認可保育園に通わせているのだから、由美だって一応審査は通っている。 書類上では自営業の実家を手伝っていることになっているのだが、毎日人手が必要な訳でもなく、結果、こうやって「いいご身分」だなんて言われてしまう現状だ。 (でも、仕事だけが全てじゃない。私はお義母さんの介護だってやってるし…) 月に数回は、義母の介護のため家を空ける。 普段面倒を見ている義姉さんの代理とは言え、介護は介護。十分「保育に欠ける」、つまり家での保育が困難な場合に含まれると、由美は思っていた。 実際、家の手伝いと介護の日数を合わせると、とても保育園なしではやっていけそうにない。 そんな家庭の事情も考慮に入れず、ただただ嫌みを連発してくるママ友には腹が立ったが、そうは言っても遅刻が多いのは事実である。 登園時間どころか、『遅くともこのくらいには来て欲しい』と園側から申し渡された9時半を過ぎてしまうこともしばしばあった。 さっと起きられず支度まで遅い菜々にも、頻繁に発熱する花菜にも、最近は苛ついてしまう。 「ママー。おしっこー」 電動自転車の後ろ座席で、菜々が足をばたばたさせた。 「もー、なんでおうちでしてこなかったの?保育園までもうちょっと我慢して」 前座席の花菜は、泣き喚きこそしないけれど涙目でぐずっている。 昨日も発熱で早引きしたし、まだあまり調子がよくないのかもしれない。 歩行者信号が、ようやく青に変わった。 携帯の表示時刻は9時18分。 この分だと今日はなんとかリミットまでに着けそうだ。 救急車のサイレンは、すぐ左前に迫っていた。 隣の歩行者も、道の向こうの自転車も、誰も動き出さない。 (青なのに、バカじゃないの。救急車なんてどうせノロノロしか走らないんだし) 由美は強くペダルを踏み込み、自転車をこぎ出した。 ゆっくりと横断歩道に侵入しようとしていた救急車が、子どもを乗せた自転車を見留めて更に速度を落とす。 (大したことないくせに救急車呼んでんじゃないわよ。朝はみんな忙しいんだから) 「ママおしっこってばー」 菜々が騒いでいる。 花菜も泣いている。 知らない。 サイレンが煩くて聞こえないわ。 もうちょっとで保育園なんだから、着いてからにしてーー 1台の自転車が悠々と道路を横切ったその後を、救急車は慎重に走り抜けていった。
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